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函館の青柳町こそかなしけれ〜函館を歩く その9 [旅]

函館に旅して、どうしても行って見たい場所があリました。
かの啄木が一家で住んだ青柳町です。
青柳町を歌った有名な歌があリます。

函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花

青柳町にある函館公園にこの歌を刻んだ歌碑があるので訪ねてみました。
五稜郭公園前駅から市電に乗り、青柳町まで。
電停から坂道を登ると函館公園に着きます。

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函館公園は「病人に病院が必要なように、健康な人間には休養する場所が必要」と、当時の函館駐在英国領事リチャード・ユースデンが提言したのを受けて、市内の実業家4人が中心となって寄付金を集めました。
市民も全面的に協力して工事に参加し、植栽されている樹木をはじめ石灯篭、橋、庭石もすべて市民の寄付によるものです。着工から1年7カ月を経て、1879(明治12)年に開園しました。

公園由来の碑
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高田屋の松
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北前船による交易によって箱館を活気づけた高田屋嘉兵衛の屋敷、高田屋御殿の庭園にあった松を移植したものです。

正面の岬は啄木一家の墓のある立待岬。
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さて、肝心の啄木の歌碑ですが、噴水広場の右手の木立の中にひっそり建っています。
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歌碑の文字は啄木の自筆を集字拡大したものです。
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石川啄木が函館に住んだのは明治40年(1907)5月から9月にかけてのわずか132日間です。この間、地元の文芸同人「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」の友人たちと文学を論じ、人生を、恋を語りあいました。

函館公園から春日通りを少し下ると石川啄木居住地跡の説明板があります。
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7月7日啄木は盛岡から妻子を呼び寄せ、この付近の路地奥にあった6畳2間の借家に落ち着きます。8月には母と妹も加わり、代用教員と新聞社の職も得て、函館での新生活をスタートさせます。

そうした貧しいながらも幸せな生活が断ち切られたのが、明治40年8月25日の函館大火です。
勤め先の弥生尋常小学校も、函館日々新聞社も焼けてしまい、職を求めて札幌に旅立つことで函館での生活にピリオドが打たれました。

地元の人たちはこの通りを啄木通りと名付けています。
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矢車の花はありませんでしたが、通りに面しコスモスが咲いていました。
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啄木を啄木たらしめた函館の街。
函館時代の啄木に思いを馳せながら、坂道ばかりの街を歩きました。

[9月2日撮影]
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