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いよいよ日本丸に乗船 その1 [船]

練習帆船日本丸は1930年に建造され、1月27日に83周年を祝う「進水記念祭」が開催されました。それに合わせて日本丸の写真展が開催され、私も作品を応募しました。
その参加賞として、横浜みなと博物館と日本丸の無料券いただいたので、見学に行きました。
写真展の様子は前記事で紹介しましたので、今回はいよいよ日本丸乗船です。

本題に入る前ですが、最初に屋外で撮った写真のホワイトバランスを「電燈モード」にしていたため、全体に青みがかかっていました。途中で気付いて「太陽光モード」に直しましたが、両者の比較のために載せてみます。

左が電燈モード、右が太陽光モード。
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やはりホワイトバランスはその日の天気に合わせ、適切なモードを使用するほうがよいようです。

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帆船日本丸募集写真展 [船]

横浜のMM地区に係留され、保存・公開されている練習帆船日本丸。
昭和5年から59年まで、54年間活躍し、延べ183万kmを航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60年に現役当時のまま係留され、今やミナト横浜にとって、なくてはならない存在です。

その日本丸をテーマにした写真展が開催されると聞き、応募しました。残念ながら入賞は逃しましたが、このほど参加賞の日本丸乗船チケットが送られてきたので、出かけました。

帆船日本丸の係留されている石造りのドックは、桜木町駅からパシフィコまでの動く歩道脇にあります。隣接する横浜みなと博物館を含め一帯は、日本丸メモリアルパークと呼ばれています。
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海の日の帆船日本丸 [船]

今日は海の日です。以前は7月20日でしたが、2003年から7月の第3月曜日となりました。
祝日化される以前、7月20日は海の記念日でした。

Wikipediaによると、「海の記念日は、1876年、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことに因み、1941年に逓信大臣村田省蔵の提唱により制定された。」ということです。

海の日には帆船日本丸が全ての帆を張る、総帆展帆(そうはんてんぱん)が行われますので、出かけました。

総帆展帆に先立ち、海の日を祝う「登檣礼(とうしょうれい)」が行われました。
登檣礼は帆船が外国の港に入出港する際、寄港地に敬意を表する最高儀礼です。
日本丸では年一回、海の日にだけ行われます。

訓練を受けたボランティア約60人が舳先(へさき)や帆桁(ヤード)の上に登って「海の日おめでとう!」と3度歓呼しながら帽子を振るものです。
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「本日天気晴朗ナレド波タカシ」〜記念艦・三笠その2 [船]

横須賀市の三笠公園に保存展示されている記念艦「三笠」の紹介の続きです。

日本海海戦では、連合艦隊がバルチック艦隊を発見し出撃する際に、東郷平八郎司令長官名で軍令部宛発信した有名な暗号文があります。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

最後の一文は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」によれば、秋山真之(さねゆき)中佐による加筆とされています。
「天気晴朗」には、視界が遠くまで届き敵艦を捕捉しやすい、砲撃の精度も高くなるという意味が込められており、「波高シ」には船が大きく揺れるため、吃水の高いロシア軍艦の場合、砲撃の精度が低くなることを示してます。

当時の無線はモールス信号でしたから、一文字でも途切れたり飛んだりしたら意味不明のものとなってしまうため、発信文は短ければ短いほどよいとされていました。
この美文調の短文の中にたくさんの意味が込められていたのです。

三笠の煙突。中央にはZ旗が翻ります。

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「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」〜記念艦・三笠その1 [船]

前回、前々回の記事で観音崎の水仙を紹介いたしました。
家族も一緒だったのと、風が強く寒かったので撮影は早々に引き上げ、横須賀市内で昼食後、近くの三笠公園に立ち寄りました。
ここには記念艦「三笠」が保存展示されています。

ここを訪れたのは3回目。一度は自分が小学生の頃、当然親に連れられて。
2度目は娘が小学生の頃。
3度目が今回。残念ながら娘は前に来た事をあまり覚えていないようで、親としてはちょっとがっかり。

三笠の前には東郷平八郎元帥の銅像があります。

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クイーン・エリザベス2世号横濱入港 [船]

3月6日、横浜港にクイーン・エリザベス2世号が入港しているという情報をキャッチしたので、お昼休みに見にいってきました。

横濱で仕事をしているという地の利を生かし、15分でお昼を食べ、山下公園までの行き帰りに30分、残り15分での撮影というあわただしさでしたが、白亜の船体をカメラに納めました。

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飛鳥Ⅱ [船]

さくらシリーズはまだ続きますが、ちょっとブレイク。

ここ2・3日、風の強い日が続いていますが、桜の花もまだ散らずに頑張っているようですね。

横浜港大桟橋に停泊している「飛鳥Ⅱ」です。
この日の午後、世界一周のクルーズのため出航しました。

船での世界一周、考えただけでも時間と金がかかりそうてす。
ちなみに旅行代金は、最低360万円から最高1800万円とか。



おまけは横浜公園のチューリップ。
まだちらほらですが、咲き始めています。

これからも時々開花状況を報告します。

[4月4日撮影]


第五福竜丸展示館 [船]

 夢の島シリーズ、第五弾は第五福竜丸展示館です。
 夢の島公園の一角に切妻屋根の形をした建物があって、その中に第五福竜丸が展示されています。
 年配の方には説明不要かと思いますが、第五福竜丸をご存じない方もいるのでは、ということで若干ご紹介します。

 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。
 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 第五福竜丸は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被災し、乗組員23人は「死の灰」を浴びました。
 死の灰(放射能降下物)は放射能を大量に含んだ珊瑚礁の石灰岩の細かいチリで、雪の降るように積もり、甲板をおおいました。また、乗組員の顔、手足、髪に付着し、鼻からも体内に吸い込んでしまいました。皮膚に付着したところは放射能により、ヤケドのような状態になりました。
 この実験の事前通告は日本の海上保安庁や水産庁にはありませんでした。また、他の多くの船舶に加えて実験場に近いマーシャル諸島の島民も放射能に汚染されました。当時マーシャル海域には、900隻に及ぶマグロ漁船が漁をしていて、2万人近くが被爆したといわれています。
 船は全速力で母港の焼津港に戻りましたが、23人の乗組員は重い急性放射能症状がでていて、半年後の9月23日には無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。
 被害は第五福竜丸だけにとどまらず、帰港した他のマグロ漁船からも放射能に汚染された「原爆マグロ」が次々発見され、廃棄されました。さらに、放射能を帯びた細かいチリは大気の流れに乗り雨に混じって日本全国に降ってくるようになりました。
 放射能への恐怖は日本国民の中に原水爆への激しい怒りをよみがえらせ、1955年8月広島での第一回原水爆禁止世界大会を開き、世界に核兵器廃絶、被爆者援護を呼びかける大きな力となりました。
 それでは、第五福竜丸がなぜここ夢の島にあるのかということですが、その後、船は文部省が買い上げ残留放射能の測定実験などに使われた後、放射能の除去作業が行われ、東京水産大学の練習船として改造され、名前もはやぶさ丸と変え、国民の前から姿を消したのです。1967年はやぶさ丸は廃船処分となり、解体業者に売り渡され、夢の島に打ち捨てられたのです。


夢の島に廃船として打ち捨てられた第五福竜丸

 1968年3月朝日新聞の声欄に掲載された一つの投書「沈めてよいか、第五福竜丸」が人々の心を揺り動かしました。この投書がきっかけとなって市民による保存運動が広がり、当時の東京都知事美濃部亮吉氏もこの運動に加わって都立第五福竜丸展示館が1976年6月開館しました。

(明日に続く)


マリア・ルス号事件と副島種臣 [船]

 このブログのテーマとしてはややはずれますが、自分の自己啓発としてインターネット上の大学である「佐賀ときめき大学」に4年前から参加しています。毎年テーマが決められていて1年に1度佐賀でのスクーリングへの出席とレポートの提出が義務づけられています。4年時のテーマは「日本近代化の先駆けー幕末・維新期の佐賀ー」で、このたび、私の提出したレポートが優秀賞をいただき、7月29日の佐賀新聞に掲載されたという連絡がありました。
 そこで、予定を変更して、このブログにレポートの全文を掲載します(約2000字です)。

「マリア・ルス号事件と副島種臣」

 佐賀七賢人というテーマで以前から思っていたのは、七賢人と自分の住む横浜との接点がなかったかということである。調べてみると明治維新直後の横浜港が舞台となった「マリア・ルス号事件」に、七賢人のうち副島種臣が重要な関わりを持っていたことがわかった。

1 マリア・ルス号事件とは
 1872年(明治5)7月13日夜半、一人の男が暗闇の横浜港に飛び込んだ。これがマリア・ルス号事件の発端である。幸い男は近くに停泊中のイギリス軍艦、アイアン・デューク号に救われたが、その様子を不審に思った船員が問いただしたところ、男は船内での苛酷な取り扱いに耐えかねて逃げ出した清国人とわかった。


アイアン・デューク号

 ペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)は、マカオを出航しペルーに向かって航行中、暴風で損傷した船体を修理するため横浜港に停泊していた。船には230人の清国人移民が乗っていたが、船底に押し込められ、十分な食事も与えられず、折からの暑さで船内は悲惨な状態となっていた。この事実がイギリス代理公使から外務卿(外務大臣)副島種臣に伝えられた。

 当時ペルーと日本は条約を結んでおらず、清国とは条約調印済みだが未発効の状態であった。しかし副島は英米両国の支持のもと法権は日本にあるとして、神奈川県参事(のち権令、現在の知事)大江卓に船長の裁判を命じた。その間清国人全員を上陸させて港内の施設で手厚く保護した。

 特別法廷では船長の不法監禁を確認したが情状酌量により無罪とする一方で、清国人全員を解放・帰国させた。これに対しペルー政府が異議をとなえたが、明治8年のロシア皇帝による仲裁裁判は、日本政府の道義的処置はなんら非難すべきところがないとする判決をくだした。

2 副島と江藤

 マリア・ルス号事件の主役は裁判を指揮した土佐藩出身の大江卓である。そして当時25歳の大江を終止一貫して支持したのは外務卿副島種臣であった。

  
     副島種臣(左)と大江卓(右)

 維新直後の日本には司法の独立がなく地方行政官が裁判を担当する事になっていた。これに対し司法卿の江藤新平は早くから司法の独立を訴え、全国に裁判所を設置し実行に移そうとしていた。この事件はそのちょうどさなかの出来事である。副島はワトソンからの書簡を受け取ると、この裁判を司法省で引き受けようという江藤の申し出を断り、現行制度のまま神奈川県権令が裁判を行うよう太政大臣三条実美の了承を取り付けた。

 副島も江藤も佐賀藩の英学校「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいる。副島とて司法の行政からの独立が必要な事は重々承知していた。しかし、江藤が「海上の船舶内は治外法権であり日本の法律は及ばない」と考えたのに対し、副島は「船内が治外法権とはいえひどい虐待を受けている人たちを見捨てる訳にはいかない」と、あくまで日本国内で生じた人道上の問題ととらえ、清国人クーリー苦力の解放をめざした。留守政府を預かる副島としては、この事件を解決する事で、近代国家として日本が脱皮しつつあることを諸外国にアピールする絶好の機会であると考えたに違いない。


   フルベッキ

3 事件と裁判の意義

 条約未済国のペルー人船長を被告とする裁判が開始されると開港当時の諸外国との取り決めである「居留地取締規則」により、各国領事から横槍が入り、裁判長の大江は難儀する。そのたびに副島は大江を強力にバックアップした。特に、アメリカ公使が当初の態度を変え、中南米諸国の外交事務代行を行っている立場から清国人を船長に返してやってほしいと副島に書簡を送り裁判に圧力をかけてくる。しかし、副島はペルー人と清国人の日本国内における利害の対立は日本の法律で裁くことができるという、フルベッキから学んだ「万国公法」の考え方をもとに大江を支持し、この書簡は日本の主権を侵す内政干渉であるとして受け取りを拒否した。当時の日本は不平等条約下で治外法権がまかり通っていたが、副島は断固たる態度でこれと戦ったのである。

 裁判の過程で被告側の代言人(弁護士)ディケンズの、日本にも遊女という人身売買が存在しているという指摘は政府首脳を狼狽させた。この裁判がきっかけとなって政府は遊女という国内問題の解決を迫られ、娼妓解放令という思わぬ副産物を生んだ。また、ディケンズの活躍は裁判における弁護士活動の重要性に日本人が初めて気付くきっかけとなった。

おわりに

 このようにマリア・ルス号事件とその裁判は、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機となった。人権という考え方が未成熟な時代に目前の問題を看過せず現状の打開、改革を進めて行った副島、大江の態度は立派である。横浜に住んでいた中国人たちが二人にそれぞれ大旆(たいはい、大きな旗のこと)を送り感謝の意を表したが、これは今も保管され日中友好の歴史を伝えている。世界には未だに奴隷労働や児童労働が存在し、日中関係もぎくしゃくしているだけに、私たちはこの事件を改めて思い起こす必要があるだろう。


神奈川県立公文書館に保存されている大旆


海の日の帆船日本丸 [船]

今日は海の日、ハッピーマンデーです。
日本丸総帆展帆(そうはんてんぱん)が行われるので、ちょー、暑い中、日本丸メモリアルパークに出かけました。
いちおう横浜市民ですので日本丸には愛着があります。

総帆展帆とは、年10回程度行われ、訓練を受けたボランティアによって29枚ある帆が全て広げられます。
今年はあと7回、8/7,8/28,9/19,10/2,10/23,11/6,11/27に行われます。
展帆(帆を広げること)は10:30-11:30、畳帆(帆をたたむこと)は15:00-16:00です。詳しくはこちらのサイトをご覧ください。
http://www.nippon-maru.or.jp/top.html

展帆ては、約100名のボランティアが、①マストに登り、②ヤード(帆桁)に渡り、
③セール(帆)を縛ってあるロープを解き、④甲板上に降りてから247本のロープを みんなで力を合わせて引いたり伸ばしたりします。
①〜④まで約1時間かかります。

この日は日本丸を背景に撮影会が行われていて、モデルさんに従ってたくさんのカメラマンがあっちにぞろぞろこっちにぞろぞろ。暑いなかシャッターを切っておりました。