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「古代蓮の里」から「さきたま風土記の丘」へ [史跡散歩]

暦の上でははや立秋となりますが、ブログがなかなか更新できず、7月の記事が続きます。
ご容赦ください。

行田市の「古代蓮の里」で蓮を堪能したあと、そこからほど近い「さきたま風土記の丘」
へ立ち寄りました。

IMG_7936.jpg

行田市埼玉(さきたま)の地は、国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳をはじめとする巨大古墳群の所在地で、延喜式にも名を連ねる「前玉(さきたま)神社」の鎮座する場所です。

おそらくこの地が埼玉郡の中心であり、後の県名になったことを記念する石碑があります。

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和賀江嶋 〜とっておきの青空 その2 [史跡散歩]

今週一杯どんより梅雨空と雨模様が続きそうです。
雨による被害も各地で出ています。
気持ちも体調も落ち込みがちな梅雨時なので、すかっとした青空をみて元気だしましょう。

とっておきの青空・第2弾は鎌倉の材木座海岸からお届けします。

帆走準備中のヨットの群れ。

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「古代蓮の里」から「さきたま古墳群」へ [史跡散歩]

行田市の「古代蓮の里」で古代蓮のロマンにたっぷり浸りました。1400年前だと古墳時代が終わり飛鳥時代、3000年前だとすると縄文時代の人たちと同じ蓮を目の当たりにしているわけです。

「蓮と蜂」

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姫路城西御屋敷跡庭園(好古園)〜花と史跡を訪ねて その5 [史跡散歩]

好古園は姫路城の中曲輪の西側に広がる広さ3.5haの池泉回遊式日本庭園です。
姫路市制百周年を記念して造営され、平成4年に開園しました。

昭和60年以来の発掘調査で確認された西御屋敷跡・武家屋敷跡等の地割をいかした9つの趣の異なった庭園群で構成されています。
なお、「好古園」の愛称は、姫路藩主酒井家によってこの庭園の入り口付近に移設され、文武両道の再興を図った藩校「好古堂」にちなむものです。

好古園入口

園内には池あり、滝あり、せせらぎあり、遠景には姫路城を望むことができます。

園内には様々な花木が植えられています。

「白梅」

「椿」

「ふりそでやなぎ」

姫路城が借景となるよう設計されています。

「白梅」

さて、好古園を後にし京都に向かいました。
姫路城がだんだん遠ざかっていきます。


[3月10日撮影]


世界文化遺産・国宝・姫路城 その2〜花と史跡を訪ねて その4 [史跡散歩]

昨日に引き続き、姫路城の紹介です。

備前丸から見上げた大天守。

備前丸は池田輝政の居館があった場所で、明治15年の火災で焼失してしまい今はありません。備前丸とは、輝政と家康の二女、督姫との間に生まれた忠継が、備前国を与えられましたが、まだ幼かったためここに住んでいたから付けられた名です。

この登城口から天守に上ります。

天守閣最上階から東の方向を写しました。手前の赤レンガの建物は姫路市立美術館です。

西側の男山方面。

この瓦紋はどの大名の紋でしょうか(現在調査中)。

櫓とそれをつなぐ廊下が美しい連なりを見せています。徳川秀忠の娘、千姫の居室の化粧櫓(手前の工事中の白っぽい建物)と百間廊下です。

そのほか姫路城にはたくさん見るところがあって一日中いてもあきません。

こちらは備前門脇の角の石ですが、方形のひときわ大きな石は古墳の石棺を転用したものです。

こちらには歴代の城主の瓦紋が集められていました。

ここは「腹切丸」と呼ばれている曲輪で行き止まりになっています。

腹切丸の前には首洗いの井戸もあって不気味な雰囲気。こわごわ覗いているのはうちの娘さん。

普通お城のなかに処刑場は設けませんので、実際にはここで切腹は行われなかったようです。

これは「お菊の井戸」。播州皿屋敷のヒロイン、お菊が斬殺され投げ込まれた井戸です。
「一枚、二枚〜、」と恨めしげに皿を数えるお菊の声が聞こえてきませんか?

お城内部の見学を終え、西の丸から百間廊下へ向かいました。
西の丸からみた天守。

百間廊下内部。

化粧櫓内部には娘と貝合わせをする千姫の姿が再現されています。

名残惜しいのを我慢して姫路城を後にしました。

[3月10日撮影]


世界文化遺産・国宝・姫路城 〜花と史跡を訪ねて その3 [史跡散歩]

3月10日〜12日にかけて姫路城と京都を訪れました。
昨日、一昨日と先に京都・東山花灯路を紹介しましたが、旅の始めは姫路でした。

私も一緒に行った娘も姫路城は初めて。
お城好きの娘のリクエストに応えてこのコースを組んだのですが、私も日本のお城を見るのは大好きです。

城の周囲には桜の木がたくさんあって、花の咲く頃はさぞかしきれいなことでしょう。

姫路城は空を突く天守群と美しい白壁が白鷺の舞いたとうとする姿を連想させることから、白鷺城とも呼ばれています。

大天守のほか小天守を含む7棟は国宝で、場内の現存建物74棟は重要文化財です。1993年に法隆寺などとともにユネスコの世界文化遺産に登録されています。

いよいよ大手門を通って姫路城へ。

三の丸広場には世界文化遺産の碑。

徐々に天守が近づいてきます。


しかし、外部からの侵入をはばむのはこの菱の門。
三の丸から二の丸に通じる大手口を固めた第一の関門です。
冠木に花菱紋を掲げるのでこの名があります。上の櫓には武者窓、花燈窓があり桃山時代の風情を感じます。

城壁や塀には、いたるところに狭間(さま)が設けられています。狭間とは「すきま」のことです。

三角や四角、丸の鉄砲狭間、長方形の矢狭間があります。戦闘のための装置とはいえ美しいデザインです。姫路城にはこうした狭間が500あるそうです。

天守がだんだん近づいてきますが、じつはなかなかたどりつきません。

「油壁」

この壁は砂と粘土を古式に沿って塗り固めたもので、堅固で鉄砲の弾もはじき返す強さを持っていると言われています。秀吉築城時代の名残で、他の白壁と材質も工法も違うのがわかります。

備前丸からの大天守。

重厚な大天守。間近から見上げると迫力があります。

(続く)

[3月10日撮影]


深大寺(じんだいじ) [史跡散歩]

神代植物公園の深大寺門を出て(再入園する場合は再入園券をもらいます)、坂道を少し下るともうそこは深大寺の境内です。

調布、布田という地名は、古代の武蔵野の地に朝鮮半島からの渡来人たちが織物の技術を伝えたことを物語っています。
深大寺がこうした渡来人たちの信仰を集めていたことは想像に難くありません。
寺には白鳳時代に鋳造されたという釈迦如来椅像が、釈迦堂に祀られています。
深大寺の寺名は、湧水の豊富なこの地に祀られていた水神の深沙大王にちなむものです。
つまり深大寺は「深沙大王の寺」という意味です。

草葺き屋根の山門は桃山時代のもので、「浮岳山」という額がかかっています。

本堂は江戸時代に大火で焼失し、大正時代に再建されたものです。

元三大師堂(がんさんだいしどう)は毎年3月3日〜4日のだるま市で多くの参詣者を集めています。

門前には深大寺そばの店が軒を連ねています。蕎麦の原産地は大陸北方で、我が国には渡来人がもたらし広まっていきした。江戸時代に天台宗の法親王に献上した蕎麦切りが賞賛されたことから深大寺そばは有名になったそうです。

古くから庶民の信仰を集め、武蔵野の豊かな自然を背景にした由緒ある深大寺。
神代植物公園では花を楽しめ深大寺では歴史を感じられるという、とてもお得なスポットです。


十五郎穴 [史跡散歩]

茨城県への一泊二日の旅でしたが、ブロクでは7日間かけて紹介しました。
本日は最終日です。

虎塚古墳から十五郎穴横穴群に向かう途中の畑でハグロトンボをみつけました。
用心深いトンボでちょっと近づくと飛んでしまい、近寄っては撮れませんでした。
翅をひらひらさせて飛ぶ姿はトンボよりも蝶に似ています。

ハグロトンボはあきらめ、十五郎穴へ向かいました。
人っ子一人歩いていない野道です。
切り通しのような道をしばらく行くと田んぼが見えてきて開けてきます。
川に面した段丘の崖に見えるいくつかの横穴墓が十五郎穴です。

これは副葬品の年代から奈良時代のお墓であるとされています。
群集して作られていてその数は300基を超すと言われています。
自分たちの暮らした集落と田んぼを見渡せる位置に亡骸を葬ったのだと思います。


虎塚古墳 その2 [史跡散歩]

ひたちなか市埋蔵文化財センターを出て、歩いて虎塚古墳に向かいました。
近道するには森を通っていくのですが、この入り口が暗くて不気味です。

暗い森の中を1〜2分進むと虎塚古墳の墳丘が見えてきました。
周囲は古墳公園として整備され、休憩するためのテーブルやベンチがおかれていました。
個人的な見解ですが、古墳の周囲には何もないほうがよいのです。
周辺環境を維持するには公園とするという手法しかないのはわかりますが。

虎塚古墳は前方後円墳で、全長56.5m、7世紀前半頃作られたと考えられています。
昭和48年の発掘調査で後円部から石室を発見し、翌年国の史跡に指定されています。

ここが石室の入り口です。

墳丘には上ることができますが、ここはお墓であることを忘れないようにしましょう。


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